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2017-05-31

少し長めの自己紹介

はじめまして、山本ミニ子です。

ミニ子は本名じゃありません。
自然に生まれたあだ名でもありません。
にちにち寫眞を立ち上げるにあたって、35歳の誕生日の直前に、自分で付けました。
本名も別に隠していません。
というか本名でのお仕事もしています。
じゃあどうしてわざわざそんな名前を付けたのかというと、
子どもさんや一般の方からの覚えやすさ親しみやすさを込めてというビジネス的な狙いももちろんありますが、一番には、これから家族写真を本気でやっていくという、覚悟の表れとして、そう決めました。
(ちなみになぜミニ子かというと、背が小さいから!)
以下ちょっと、いや、かなり長くなりますが、その覚悟に至った経緯をお話ししたいので、よろしければお付き合いください。
 
 ****

 
1982年生まれ。
転勤族の家庭で育ち、子どもの頃からあちこち転々としました。
静岡の菊川、佐久間、栃木の小山、新潟の浦佐、埼玉の大宮、京都…どこも思い出でいっぱいです。
人への興味が人一倍強い子どもでした。
幼稚園の友達の名前は全員覚えていますし、いまだにカレンダーをみると、今日は小学校の友達の〇〇ちゃんの誕生日だ、と思ったりします。
そして、記録魔でもありました。
日記は勿論、ノートに1日24時間のタイムログのようなものを毎日つけていました。
思えば、私の「場所の記録を大切にしたい」「些細なことも記録したい」という写真へのこだわりは、このあたりの性質が原点にあるのかもしれません。
 
中高大と過ごした京都では、吹奏楽とオーケストラに青春を捧げました。
エスカレーターで進学した大学では法学部の政治学科に進み、当時人気の国際政治のゼミに入るも聡明で博識な仲間たちについて行けない落ちこぼれでした。
 
この頃から日本語教師になりたい!と養成講座に通いながら色々な語学を手当たり次第に学び、唯一モノにしつつあった中国語を頼りに中国の武漢という街の大学に留学しました。(そこで同じく留学中だった現在の夫と出会います。)
 
中国はとても面白い所でした。
着いて2週間で日本語教師のアルバイトを見つけ、後に正規の講師にスカウトされ、大学卒業後も含めて丸2年働くことになります。
時間はたっぷりあったので、街歩きや旅行もたくさんしました。
バックパックで陸路で周ったアジア各国も刺激的でした。
 
そんな生活の中で、エネルギーあふれる街や、出会った人たちをなんとなく撮るようになりました。
300万画素の乾電池式のデジカメでは物足りなくなり、一時帰国の際に、給料の3ヶ月分を出して一眼レフを買いました(それだけ高いカメラだったのではなく、それだけ安い給料だったということなのですが)。
そして現在の夫が卒業、就職で帰国するにあたり、自分の今後の身の振り方を考えていた頃、「写真上手!写真家になれるんじゃない?」という友人の社交辞令を間に受け、本格的に勉強してみようかなと思い、東京の写真学校に入ることにしました。
 
写真学校ではアジアを半年間旅しながら作品を撮るというユニークなカリキュラムのあるコースで勉強しました。
家電量販店のカメラコーナーの売り子や写真チェーン店で現像やプリントのアルバイトをしながら、自宅のお風呂を暗室にして課題に追われる3年間でした。
この3年間でわかったのは、自分の思う作品を撮る「写真家」と仕事で求められる写真を撮る「カメラマン」は全く違うもので、どうやら自分は写真家にはなれそうにないということでした。
 
私は写真学校を出て大手新聞社系出版社のカメラマンになりました。
商品撮影(いわゆるブツ撮り)や、ルポ取材、芸能人のポートレートや対談写真など、スタジオ撮影からロケ撮影まで一通りのお仕事を経験し、丸3年勤めてフリーランスになりました。
稼げる目処がついたからとか独立心でとかではなく、契約期間が終わったので「卒業」と言う名の追い出しを食らっただけであり、
1年上の先輩も、5年上の先輩も、みんなそうやって3年で卒業していったのです。
私はちょうど契約満了の少し前に第一子を授かったので、乳飲み子を抱えてのフリーランススタートとなりました。
産後は8週で復帰し、お世話になった全部の編集部に挨拶しにいきました。
ちょうど卒業だしこのまま子育てに専念するのねと思われたくなくて、必死にお仕事しますアピールをして回りました。
日中のみという時間の制約はあるもののこれまで通りの慣れた雑誌のお仕事をいただいてまずまずの滑り出しでしたが、一方で、出版不況の波がフリーランスに押し寄せてきているのは感じ始めていました。
出版だけでやっていくのは危険ということで学校写真や企業撮影なども経験していく中で、家族写真の出張撮影と出会いました。
 
やってみて感じたのは、家族写真っていいなぁということ。
喜んでもらえて、一生大切にしてもらえるのです。
新聞や雑誌で撮った写真は、数ヶ月後には古紙回収に出されてしまうし、撮られる側も仕事で撮られているわけで、特段感謝されるわけでもありません。
 
年間80-100組ほどの家族を撮影し、時々気になったプロカメラマンに我が家の家族写真を撮ってもらうようになりました。
子どもももう一人生まれました。
その中で、私が残したい家族写真の形が、少しずつ明確になっていきました。
 
子育ては、楽しいです。
もう本当に、全部全部覚えていたいなぁと思います。
仕事やプライベートで家族の写真をほとんど毎日撮るようになり、
美しく整った破綻のない写真よりも、ありのままの瞬間を捉えた写真に愛おしさを感じるようになりました。
そういう飾らない瞬間であっても、ちゃんとした腕があれば美しく残せるということもわかってきました。
 
家族写真に特別な想いが湧いてきた今、覚悟を決め、家族写真の世界でカッコ良く生きてみよう、と思ったのです。
 
こうして、にちにち寫眞と山本ミニ子が生まれました。
 
私の覚悟やこだわりなど皆さんには関心のないことかもしれませんが、撮る人の思いは必ず写真に表れると思うのです。
これからもずっと、誇りを持って家族写真を撮っていきます。
 
長々と読んでいただき、ありがとうございました。
 
山本ミニ子
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