お産撮影は誰のため? 出産撮影@調布市
2月の頭、ブルーなんとかムーンに沸いた翌朝、計画分娩にカメラマンとして立ち会いました。
知り合ってすぐに、にちにち寫眞の今はなき4回プランを申し込んでくれた彼女は、
自身も素敵な家族写真を撮るフォトグラファー。
昨年の秋にはお嬢さんの七五三の撮影もさせていただき、退院直後の自宅でのファミリーポートレートと生まれてくる赤ちゃんのお宮参りの予約もいただいたので、
以前から興味のあったお産の撮影をお勧めしてみたという流れです。
雑誌の撮影で、助産院や産後のママの取材に行ったことは何度もありますが、
お産の現場そのものを撮るのは初めてでした。
どんな撮影になるのか、全く想像もつかないまま、その日はやってきました。
家族の歴史の一コマとしての出産写真
早朝、7時前、産院に到着。
破膜などの処置が済み、陣痛を待つ、穏やかな時間からの記録。
「なんかディテールをすごく見ちゃう。あそこのカーテンについてるタグとか。モビールがあってよかった。」
と静かに語る彼女。
そうでした。
私もお産を思い出すと最初に浮かぶのは上の子の時暗い陣痛室で一人凝視していたベッドの柵とか、下の子の分娩台で睨み続けた天井と壁の境目とか。
極限が近づく中で孤独な時、すがれる物を探す気持ち。何かを見つめて気を紛らわせるしか術がないあの状況。
どうなるかわからない、いつまでかかるかわからない。
自分ではどうすることもできない。
後戻りはできない覚悟と、決定的な瞬間はいつ来るかわからない、ふわふわした、コントロールできない時間を過ごす感じ。
撮っている時は必死なのだけど、
編集が終わって見返してみると、
ああ、これは、ドラマだな。と、思いました。
新しい命の誕生であるとともに、
新しいお姉ちゃん誕生のドラマを見た気がしました。
怖くて部屋を出て行こうとするお姉ちゃん。
泣き出してしまうお姉ちゃん。
結局出産の瞬間には立ち会えなかったお姉ちゃん。
絵のプレゼントをするお姉ちゃん。
抱っこをするお姉ちゃん。
数ヶ月前に揺るぎない主役として着物姿を撮影した3歳の彼女が、単独主役ではなくなった日。
家族の歴史が、いつもより少し大きく動いた日。
おめでとう、おめでとう。
商品としてのお産撮影は、アリか、ナシか?
納品後、彼女から泣きながらお電話をいただきました。
「100万払っても、後からでは絶対に手に入れられない写真。
それも、時間が経てば経つほど価値が増す写真。本当に撮ってもらってよかった。」と。
産後の身体で、一コマ一コマについて、電話口で1時間も語ってくれました。
「この時あの子がこんな風だったんだって知れてよかった」とか
「自分では知り得なかった周りの人の関わりが見られて嬉しい」とか
そんな風に言ってもらい、私も本当に撮ってよかったと思いました。
さて、しかし、しかし。
今回の記事、撮影から、文章にするまで、4ヶ月もかかってるんですね。
何度もセレクトや下書きを繰り返しては消して、こんなにかかってしまいました。
その間、他の写真家さんの出産撮影の写真を見たり、お産についての座談会のようなものに参加したり、お産をテーマにしたドラマ『コウノドリ』を観たりして、
色々考えているうちに、伝えるべきことは何なのか、わからなくなってきまして。
ハレの日や日常風景の家族写真に関しては、
作品としても、商品、サービスとしても、いろんな人がいろんな立場で撮影、発信していて、
私はその中で差別化というか、コンセプトをはっきり言語化できている方だと思うのです。
ただ、お産の撮影となると、どうか?
正直、撮ってみるまで、そして撮ってみてからも、自分の立ち位置がよくわからなかったのです。
まず、商品としての出産撮影というものは、その数が圧倒的に少ない。
スケジューリングの難しさや、家族や産院の理解など、高いハードルがいくつもあって、
サービスとして成立させるには厳しいものがあるので、当然かもしれません。
一方、作品としての出産撮影は、少ないけれどもいくつか存在していて、
少子高齢化や多様化の進む現代においての社会的な意味を投げかけるもの、
性教育の一環として記録したもの、
助産師さんや、周産期医療に携わる人の眼差しに注目したもの、
母親というものの強さを表現したもの、
お産を生命の神秘のような、芸術として捉えたもの、
色々あってそれぞれ素晴らしいのですが、私はそのどれにも当てはまらなかったなぁと、ぼんやり考えていました。
私は自分のことを「写真家ではなく、カメラマン」と常々言っているのだけど、
それは、個々の具体的な事象を普遍的なテーマに昇華して外へ向かって発信する写真家の方々へのリスペストが根底にあって、
自分には到底できないので、そこの線引きを意識的にしているのです。
自分の撮ったものと世に出ている他の出産写真を4ヶ月間見てきて、
そして喜んでくれた彼女の言葉を何度も反芻してみて、
最近ようやく、一つの結論に至りました。
私の撮るお産は、その家族のためのものでありさえすれば、それでいいんだなぁ。
ということでした。
社会的意味も、教育的価値も、芸術性も無くていい。
にちにち寫眞(にちにちしゃしん)のコンセプトにある、忘れたくないから撮る、どんな日も写真日和であるというのはこういうことで。
ずっと続いている日常の中にある「とある一日」としての出産当日の写真。
そこには、この日を境に変わるもの、変わらないものが確かに混在していて、
お父さんの気遣いあふれる行動の一端であったり、
お姉ちゃんの怖さと戸惑いの気持ちの動きであったり、
お母さんの勇姿であったり。
その日、そこで確かに起こった、いつもの家族の、連綿と続く歴史の一コマとしてのお産。
それが、にちにち寫眞のお産撮影です。
商品としてのお産撮影は、アリか、ナシか?
私はアリだと思いました。
彼女の言葉を借りれば、100万払っても欲しいと思える価値がある。
そしてその価値は時間が経つにつれて上がっていく。
ただ、やはり現実的にメニュー化するのは難しい。
ですので、にちにち寫眞のスタンスとしては、
これまで通り、マタニティーフォト、ニューボーンフォト、お宮参り撮影を予約してくれた方対象に、
希望であれば、かつ諸々の条件が運良く整えば、無料で撮りに伺いますという形をとりたいと思います。
これから出産される方は是非一度、ご検討くださいね。